No.17 (祭座新聞 第十八号、2003年9月掲載)
< 悲運の長男 徳川信康、歴史のタラレバ >
徳川家康には正室のほかに生涯を通じて11人の男子をもうけている
ことが記録に残っています。この中で二代将軍となったのが三男秀忠。
他は時代の流れと家康の勢力拡大の流れによって運命を大きく異にし
ている。長男と十一男の間では44もあいているからそれぞれにドラマが
あってもおかしくはないでしょう。
長男信康は徳川家を救った子として語られて、21才という若さで、しか
も父家康から自決を命じられた悲運の嫡男。9才で織田信長の娘、徳姫
と結婚、12才で元服し信長の一字をもらい岡崎次郎三郎信康と名乗る。
性格は英邁(えいまい)にして剛毅、反面粗暴なところが目立ったようで
す。15歳で初陣し、その勇猛ぶりは「二代目」と呼ばれ、家康も自分の
血を受け継いだ信康を愛し頼りにすることひとしおだったと文献に残って
います。では、何故そんな悲劇が起きてしまったのか!?原因は母の築山
殿にあります。 徳姫と姑の築山殿は仲が悪く、謀叛を企てた姑を嫁が
自分の父信長に密告したのです。それは武田氏と手を結び夫の家康と
信長を滅ぼした後、両者の所領を信康に分け与えてもらうというもの。
これを知った信長は激怒し、家康に断固とした処分を求めた。家康は妻
に何の未練もなかったが信康を失うことは身を切られるに等しい辛さで、
信長の再三にわたる督促にもかかわらず二人の処分を決定するまでに
一月半を要しており、家をとるか息子をとるか迷いに迷ったことを裏付け
ています。結果、家康は家臣に命じて築山殿を殺害、信康は切腹に。
信康は「自分に謀叛の疑いがかかるとは思いもしなかった。このことを
父上によくよく伝えてほしい」と介錯の服部半蔵に言い残し、腹に刃を
突きたてた。信長が本能寺で没する三年前のことです。後年、家康は
関ヶ原の合戦の折など「年老いて骨の折れることだ。せがれが生きて
いたらこんな苦労をしなくて済んだものを」と嘆息し、信康をしのんだそ
うです。
タイムマシーンで彼を生かせたら、歴史はどう変わっていたのでしょう
か・・・・。